昭和59年09月23日 秋季霊祭
おかげを頂きまして有り難うございます。只今若先生祭主のもとに秋の御霊祭りが滞りなく終わらして頂きました。お祭を拝したお祭を頂いたその拝した人達が、または頂いた御霊達はどれほどのものを頂き、または拝したかと言う事がいわゆる問題でございます。只今若先生が御霊様へのご挨拶を申しいております時に、私は不思議な情景を気付かせて頂いたのですが、その中に沢山な真っ白い傘が用意してあって、いわゆる紙の傘ですね。まぁ普通で言うなら油紙でしょう。
けれどもそれがただ紙で貼った様な感じの傘が沢山、もうそれこそひと柱たひと柱の御霊にそれをこうまあ配っておると言うか、渡しておられる様子を頂かしてもらったんですけれども、まぁ一日私共が御霊様に対して、どうぞ喜びの御霊安心の御霊としての、おかげを頂いて下さい精進をして下さいと、いう祈りを持つ訳でございますが。今日は今様々ないわゆる合楽にご縁を頂いておる、全ての信奉者にかかわる全ての御霊達が今日のお祭りを頂いております。
昨日は透析日でございましたが、私は一日置きに病院に参りますと、その生き戻りに必ず石の祠の前を通ったり、神社の前を通ったりする時には、必ず御祈念を致します。とりわけ久留米の護国神社の前を通る時には、はぁそれこそ御国のためというにまた思うて亡くなられた御霊達が、果たして今どう言う様なお状態であるだろうか、私はそうじゃない御国のためじゃないと思う、それこそ御国の犠牲になったお方達だと思う。本当にそういう意味でお気の毒な御霊達である。
私昨日は護国神社の前で、明日は教会で秋の御霊祭りをご奉仕しますが、御霊達も打ち揃うてお祭りを頂いて下さい。どうぞお待ち申しておりますから、どうぞ今日のお祭りを頂いて下さい。いわゆるお祭りを頂くと言う事、頂いて下さい。そしてまぁ言うならば安心の御霊としては頂いておられない、記録の御霊ではないとしてもです。なら一本の傘を誰にでもこう与えられたと言う頂かれたというだけの印が、御霊達の上に現れる事であろう、また私はそれを確信します。
それこそ雨が降っても風が吹いても、降っても照っても、この一本の傘があれば濡れんですむ、暑い思いをせんですむいう、言わば本当の意味においての、安心のおかげを頂くためには、まず私は御霊はまず喜びの御霊としての精進ね。私共としては、真の信心の眼目を踏まえての、御信心の精進が、なされなければならない。ま今日頂いた、まと言うのは、また何辺か降ったり照ったりしておる内に、破れると言った様な事になるかも知れませんがね。
そういうひとつの御縁の切っ掛けを切っ掛けとして、御霊達は御霊達なりに、精進してくださる結果とを作って、差し上げたのが私達の、護国神社にお祭のされておられる、御霊達だったとこう思うですね。今日御祈念中にいろいろ頂きました事のなかに、信心の眼目と言う事を頂きました。皆さんその眼目というものを、ひとつ踏んまえての、信心にいよいよならせて頂かなければなりません。御神眼で大きなもうそれこそ、生きておる様な鯛を頂いた。
そして取り分けて目玉のところがもうギョロギョロとして、もう本当にこう生きておる鯛の、まぁいわゆる生き鯛の目玉ですね。その目玉のところを非常にこう印象的に頂いた。ははぁ信心いわゆる生きと言う事は、もうおかげに直結する事ですよね。おかげを受ける事で信心とはおかげを受ける事だと私は思うです。おかげを言うたら言わば程度が低いとなどと言った様なこりゃ絶対ないです。おかげをね、信心して氏子おかげを受けてくれよと仰るのですから。
私共は信心しておかげを頂くと言う事はおかしい事じゃないです。但しそのおかげの内容というものが、ピンからキリにあるのです。例えば一匹の鯛をなら頂くにしましても、煮つけも良かろう、塩焼きの良かろう、お吸い物は尚美味しい。とまぁ申しますが本当の食通の人達はみんな、例えば鯛のチリなんか致しますとね、やぁ俺には目玉をくれっと言うのは絶対食通の人です。ところが魚は好きだと言うても、あんな私共は鯛頂く時だけでも、その目玉まで頂こうって頂きゃ切らん。
ところが実はこれはもうもう、それこそ例え様のない程美味しいもんだそうですね。いわゆる本当の通であり魚食べは、いわゆるその目玉をくれと言う様な信心。信心でもやっぱそうです。その目玉になるところ、その眼目になるところを皆さんどう言う事だ。合楽で御信心を頂いておられる方達はもういよいよその、まぁ言うならば眼目を目指し目指して、まぁ日夜信心の稽古をなさっておられるて、信心すれば一年一年有り難うなると仰せられると言う事は、一年一年信心の力ついて来ると言う事なんです。
信心の技がいよいよ身に付いて来ると言う事なのでございます。只今東京この国技館での相撲今日までですか。いかにもあのう小錦のあのうもう本当に、もう毎日毎日皆んな驚くばかりのまぁ力を発揮しておる分けですが。そんあの人が多賀竜と相対した時にね、小錦は215kg、100㎏も違うもうまるっきり大人と子供なんです、それがねその子供の多賀竜がまぁ見事に小錦を破りましたね。これは力ではないです。技。信心も同じです、力を頂かなければなりません。
神様を信じてやまない、言うなら限りない神様を信ずる力を頂かなければなりませんけれども、力だけではいけません。やはり稽古と言うのは私は技を磨く事だと思うですね。日々の信心ねおかげは和賀心にあると、本当にどの様な場合でも自分の心が和らいでおる、賀びでおれる、これはね信心の薄い人ない人には分からない事だと思うです。本当にそげな心持になれれるだろうか、そげな事そりゃちょっと可笑しいと言うでしょう。ところが事実そういう有り難い心の状態が開けて来るんです。
今朝から朝お風呂を頂きまして、茂雄さんの足を揉んで頂ております、もう風呂入り後のもう感覚のないような足が、また蘇るたかと思われるほどもうこう気持ちが良い。本当思わず知らず有り難うございますって言うて、お礼を申さしてもらって涙がボロボロこぼれて、そしたら不思議ですね、茂雄さんも感動しておられる。そん時に神様から合楽世界と言う事を頂いたんです。自分だけが有り難いのではない、相対してしておる人もね有り難い、いわゆる拝み合える世界。
氏子も喜び金光大神も喜び、氏子もなら喜びとこうおうせられる様に、そのね皆の者がこう喜び合えれる世界合楽世界である。あのねそういう時に今日はなんと何でもない、ただこんな事を頂いたよ。それがもう私はもう今日はもう本当に感動して、どう言う事、なら親先生の足を揉ませて頂いておると言う事が、そんなね涙が零れるほどの感動にこうなって伝わってくると言う事。まさしく私と茂雄さんのコミニケーション交流している。私共と神様との間の交流ね。それがこの喜びである。
先だってのもう13日会の模様をテープで聞かせて頂き、いつも聞かして頂いておりますが、それをね信徒会長の秋永先生がお話をしておりますのを聞いて、有り難い私はこういう気持ちになった事は、もう信心さして頂いておって何回しかありません。先だってから秋のあのまぁおりがいですかを、まぁ会社全体の催しを致しました。ところが不思議と言っても言えば不思議、もうほかの例えば文雄先生とか栄四郎先生とか、皆んなそれぞれ受け持ち受け持ちの、そこでは大変おかげを頂いておるに関わらず。
私に関わった者はもう何一つ売れませんでした。たった帯が一本だけでした、締め括ってしもうた時にもうその時にもう、それこそどこから涌いて来るか分からん感動、喜び。あんだけお願いしてあったのに自分だけどうしてこげな事じゃろうか。今までは自分が飛びぬけておかげを頂いておったのに、なんか御無礼があったっちゃなかじゃろうかと言う風な思い方をするもんだけれども、そんなものはさらさらなかった。ただその事が有り難かったと言う。私はまさにそういう世界が合楽世界だと思うですね。
おかげを頂いてあれもおかげこれもおかげ、本当に、まぁ都合のよい事ばっかり信心しとりゃ有り難い事だなぁと。勿論有り難い事ですけれども、そうではないその反対の時であっても、もし喜べれる手立てもしそういう中にもね、心が落ち込むどころではない、増々こう元気が出て来ると言った様な手立てがあるとするなら、皆さんどうでも本気で信心の稽古をしなければいけません。住まう世界は違っておっても、私共が魂の世界に入ったら、合楽にご縁を頂いておる全ての方達が、合楽世界に住む事になるでしょう。
その合楽世界で本当に喜べれる拝みあえれる、心の状態をね、信心の只今こうして稽古して頂いておる時に、それを放任するのではなくて、そのひとつひとつを私は力にして行き技にして行き、どの様な場合でも喜ぼうとして喜べるのではない。どこから起きて来るか分からない感動、御用を頂きながら喜びの涙がこぼれている、まぁいつまでこえんして親先生の足を揉まにゃんじゃろかと。
はははと言う様な事にならんですむ、そんでまぁ今日茂雄さんの感動を私の喜びとそれを合楽世界と言う事を頂いて。秋永先生が普通でならばそれこそ、ま落ち込んでしまうか癇癪廻そうごたる思いをする中を、とにかくそれが有り難かったとこう言ってるんです。嘘じゃない本当だと思うです。だからそういうひとつのおかげの、まぁ見本のようなものを落ちとる時でも頂けると言う事は有り難い事ですけれども、それが時々ではなくていつも心の中に喜びが頂ける、湧いて来るようなおかげの世界に住みたい。
それには今日神様から私が頂きました、お互い信心をさせて頂いておる眼目というものを。ひとつ本当に踏んまえての信心の稽古でなからなければならんと思います。今日の御霊達がなべての修行、そうした合楽との関わり合いおいて、ま一時ではあるけれども喜びの御霊安心の御霊として、おかげを受けられたように、なら皆さんもそのお祭りを社会に一段とひとつ開眼しなければいけません。
そして眼目を踏んまえての信心の稽古、時々ではない何時も絶えずどんな事に出会っても、まぁ合楽で言われる一切神愛と言った様な事が、本当に分からして頂く様になったら。それこそ人は難儀と言う見向きもしないと言った様な事柄の中にでも、むしろそこにこそだから鯛の目玉じゃないけれども。そこにこそ、そうでなからなければ分からない味わいが、あるものだと言う事をお互いに体験して行きたい。
そしてねそれこそあの世じゃないこの世で本当の合楽世界に住みたい。その合楽世界のまぁいうならばその道すがらですからね。お生かしのおかげを頂いて日々のおかげを頂いておると言う事は、もう本当言うたら私は御霊の世界に入っての御霊のいわゆる喜び。又は安心の御霊としておかげを頂ける事のために、只今があると言う様なところをいろいろの体験を踏んまえて、実感さして頂けれるおかげ、日々。
先だって心で憎んで口で愛すなよと。言う様な御教えを頂いたんですが、勿論信心をさして頂いて心に憎いなどと言った様な心があってはなりませんが。本当に心の焦点としての信心、いわゆる和賀心を目指しての、と言うとちょっと遠いですかね。結局自分の心一つで全てを創ると言われる信心において親であります。その心をいよいよ大切にさして頂く、その手立てが合楽ではいろんな角度から説かれてあると思います。
だからねその眼目が分かったその眼目に向かって、日々の信心の稽古を教祖うまずたゆまず、そして去年よりも今年と言う様に、成程信心とは一年一年有り難うなって行く、一年一年力がついて来る。一年一年一つの技げ磨かれて来る。いよいよ日々の成り行きとの対決、日をおいて一つ力を磨かして貰い、いよいよ喜びの心を頂かせて頂けれる、信心に向きを変えなきゃなりません。その13日会の時に秋永先生が話しておりましたが、あのう私がその自分の、何時も自分に会わん様な大きな願いを持っております。
だから神様はやっぱりその大きな願いを、なら聞き届けて聞き届けてでもやろうかと思われるからこそ、神様が鍛えて下さる御修行だと思うと言った様な意味の事を言って居りますようにね。だからその修業を本当に有り難く受けて立つ事が有り難い。神様の願いが成就する事の為にいよいよ一心発起して信心の本当の、成程塩焼きも良かろう、煮つけも良かろうお吸い物も美味しいけれども。
こんなところばかり食べるとも有り難いけれども、頭のところをねしかも目玉をね、独特のその味を頂けれるような信心を、もう一つ頂きたいもんであります。この世を合楽この世で合楽世界の本当の味わいを頂いておきたいと思います。あの世へ参りますいよいよその基礎やら土台と思われる、信心をねいよいよ確固たるものにして行く、そこを眼目とすることがお道の信心であり、合楽にご縁を頂いた方達のひとつ信心願網でなからなければならんと思います。
どうぞ。